彼の見る世界


 美術室の扉を開けば、少々古めかしいながらもするりと開く。 途端に油の匂いが広がる独特な場所は菊も嫌いではない。
 ただ、キャンバスに向かう彼を見ると、彼の居場所だと 思わずにはいられない。賑やかさも明るい笑い声もない、音で響くのは筆が動く時だけ。 それは彼が作った空間で、菊はどちらかと言えばそんな空気を好む。 ここでは他者も空気なのだ。だから菊も自由に動ける。
 椅子に座っている彼から少し距離をとって、菊も机に用具を並べていく。 窓を開いて風を入れると油の匂いが薄まる。そうして菊も菊の世界へ向かい合った。

「わあ、菊、スゴいねぇ!」
 歓声が上がって漸く菊が現実に戻る頃には、 窓から差し込む日が赤くなっていた。顔を上げるとふわふわした笑顔で イタリア人が笑っている。フェリシアーノ君、菊が呼ぶと フェリシアーノは嬉しそうに笑う。あの、荘厳な教会にいるみたいに 真剣な顔をしていた人間と同一人物とは思えない。失礼ながら。 だけどフェリシアーノのデフォルトはお花が舞っている状態で、 同好会のエリザベータ曰く 「かわいいは正義」なのだ。菊もその名言に大いに頷いている。 男にこう言うのは非常に申し訳ない(菊も男なので)が、彼はかわいい。
そんなかわいい、けれど尊敬している彼が興味を示していて菊も嬉しくなった。
「ありがとうございます」
「これ、サクラ?」
「ええ。日本画は随分久しいので練習していたんです」
「綺麗だね。ミルキーホワイトより甘そうで、優しくて、寂しい――儚い?」
「胡粉といって、貝から出来た塗料です。儚い、ですか。 墨と胡粉だけですから余計かもしれませんね」
 薄墨を重ねた上に透き通るよう乗せていった胡粉が、 薄暗くなってきた室内で淡く光る。星屑を固めたようなそれだけ見ると、 彼の言うミルキーウェイに流れたミルクに見えなくもない。
 だが全体を見れば舞い落ちる桜の絵で、無常感の方が強かった。
「うん。俺、好きだよ」
「私も好きですよ。聖母画でしたね」
 目線をフェリシアーノの先に移すと、キャンバスが見える。 乾燥のために置かれたままのそこにいるのは、子を包みこむ慈悲の笑みを浮かべた聖母マリア。 淡く繊細なタッチで描かれていて、作画途中でもずっと見ていたくなる絵だった。 フェリシアーノの才能は神に愛されていると絶賛されている。
「マンマに焦がれない男なんていないよ」
フェリシアーノはふふ、と愛らしく笑って聖母画へ首を傾けた。
「ねえ菊、俺にはサクラもマリアも同じに見えるよ」





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