或る人の現状


「………」
 淡いモスグリーンのカーテンがうっすらと光を帯びている。 もうじき鳥のさえずりが聞こえだす頃だろう。と、思ったと同時に 特有の高音が聞こえた。朝である。

「なに。どーなってんの」

 ぐわんぐわんする頭を抱えながら佐助はうめいた。 オレンジの髪に手を差し入れる。二日酔いでもないのにこの仕打ちは酷すぎる。 アルコール摂取なんてここ一ヶ月以上縁のない生活を心掛けていたのに。
 徹夜明けで二日酔いの心境など、考えただけでもうんざり出来る。 しかし佐助は現在進行形で体験中だ。 そんな、俺、我ながら図太い神経してるほうだと思ってたのに。
 時刻は起床の時間を告げていた。 テレビの電源を入れればニュースが音のない世界を満たしてくれると知っていたが、 音を聞くのも億劫でならなかった。何度目か数えるのも馬鹿らしい寝返りを打って 、横向きになった佐助はいっかげつ、と諦めの混ざった感情を吐き出した。 猿飛佐助が人生の3分の1を占める寝るという行為を忘れてしまって、一ヶ月。




「酒呑めねえなんて人生終わってんよなあ」
ほら、男の子のロマンったらでっかい大海原に酒に女だろ?

「大海原じゃなくてタバコでしょ。普通」
「けど不眠不休で一ヶ月。テレビ出れるな」
「わかってんでしょチカちゃん。説明すんのも嫌になるくらい機嫌下降してんの」

 それはもう。元親の目から見ても、佐助の愛想のよさはすっぽり抜け落ち、 別人と言っても差し支えない。他人と話す分には適当にあしらっているようだが、 それも段々と余裕がなくなってきているのか剣呑そのものである。 睡眠の大事さを元親は実感した。
 青ざめて顔色も悪くなっている佐助は、大学構内にある手すりに 力なく凭れかかっている。元親は佐助がここまで弱った姿を見たことがない。 そつのない、言い換えてしまえば誰とも深い関係を持とうとしない男だったからだ。
 佐助の手が手すりのステンレスをズルズルと滑る。キュ、と鳴る金属の摩擦音。 通りすぎた場所が体温で僅かに白く曇り、直ぐに銀色に戻る。 ストライプ状の手すり、うちの棒を二本、掴むよりも添えたの表現が似合うまま、 佐助はしゃがみこんで膝頭に顎を乗せた。 隣で飲料水を口にしていた元親は軽く目を見開いて、おい大丈夫か?と 声をかけてみるが、佐助は別件に頭を動かしているのか焦点が定まっていない。

「旦那が来るってのに」
「旦那?」

 聞き慣れない単語に元親が聞き返すと、本人は言うつもりはなかったのだろう、 しまったという顔をしていた。
視線を俯かせて、
「親戚のね。大学の下見に」
体を動かして完全に座り込む体勢になった。
 もしかしたら、佐助がこうも現状の改善に悩むのはその『旦那』が 関係しているのかもしれない。タバコを吸おうとして伸ばした手をさ迷わせ、 しかし元親は手を止めた。先週、佐助に差し出した四角い箱の本数は、 元親が消費した分しか減っていない。逡巡しかけ、気分じゃないと言った本心を 元親は探ろうとしなかった。
旦那と口にした佐助の声色には、知らないモノが凝縮している。
「断れなかったのか?そりゃ自由だけどよ。いざとなったら病院で麻酔ってのもありだろ」
 喫煙のかわりに空になったペットボトルで足だけのリフティングをする元親、 佐助はただ遠くの空を眺めた。次の講義は何だったか。寝てしまいたい時に 寝れないのはやはり苦痛だと思う瞬間だ。

「幻肢痛」

 げんしつう?具体的なイメージがわかなかった元親は佐助に問いかけてみるが、 カツンカツンと階段を下りる音だけが響いていた。 足の甲と、足首に挟んでいたペットボトルを高く浮き上がらせ蹴り飛ばす。 元親がボールよろしく蹴ったペットボトルは壁にぶつかってガコンと、 カンやごみが乱雑に詰め込まれているダストシュートに飛び込んだ。
 伊達がいなかったのが救いだと判じ、ジーンズのポケットをあさる。 元親がタバコを入れている場所だった。