うなだれる日の彼らの世界
感覚が麻痺したらしい、穢されない白濁に立っているのはふよふよとした心地だった。
血が熔岩となり沸騰しているのか凍りつき凍土と化しているのかもわからない。
吐き気を伴うような悪質な陶酔、悦楽。人を人ならずにしてしまう麻薬よりも
なんと性質の悪いことか!幸村は墨を擦るのを止め、活気づきすぎる太陽を睨んだ。
硯に溜まっている墨汁は使用する分には濃すぎており、手に添えられた墨石は
ぱきんと折れ分かれてしまった。滑らかな艶のある漆黒を何気なく眺め、勿体ないと反省する。
幸村にとって伊達政宗は純粋な敵意と歓喜を満たす宿敵だった。
師と仰ぎ、主と頭を垂れる信玄と謙信の、此方も宿命ともいえる共鳴に言い表せない
歯痒い思いがかすめるも、幸村も知ってしまったのだ。
相手の斬撃しか見えない。相手の息遣いと筋肉の収縮、致命傷を狙う眼しか映せない。
ずっとこの時が続けば、政宗は心底楽しそうに叫んだ。幸村も同じだった。抗いがたい
、抗えるものか!頭が、脳が、手足が、痺れ何もかものリミッターを外す感覚、
全力を出しあえる震え。信玄・謙信が味わっていたのはこんな世界だったのだ。
「口惜しいか」
硯にすっと伸びた手を景色のように見つめ、幸村は景色に問いかける。指に挟む
墨石ごと手を持ちあげられ、石は折り畳まれた懐紙の上に呆気なくぽとりと落ちる。
指先についてしまっていた墨の汁も新たに取り出した布で拭われた。爪の間の
黒色はさすがに拭えなかった。
「俺が謙信公に焦燥と嫉妬を抱いたように」
右手を解放すると手はもうひとつの石を取り除こうと動く。墨汁が乾き始めている。
はやく文をしたたねばならんなあと幸村は思うのだが、筆すら握っていない。
広げられた紙面は白いままにそこにある。
「口惜しいか。佐助」
窪みでぬれてしまった石を取り出すと、それも懐紙の上に乗せる。綺麗に割れた
断面は、米のりでもつけたらくっつくだろうか。と、動きを何となしに追っていた幸村は
喋る言葉と違うことを思い浮かべた。そのまま使うには少々不便だ。
着ていた単衣にじり、と薄く汗ばんだ肌がはりつくような感覚さえおこすなか、
背後に付き従う影の冷ややかさと、漏れだす泥濘のようなどろりとした何かに幸村は笑い出す。
職種にしては口数の多い影は当然のごとく幸村の常近くにあったが、影は影のまま無言を
保ち佇むばかりで、不快感を示すかすかな空気だけが影の言葉である。
くちなしを幸いにと、懐紙にのせたまま指先についた墨を拭おうともしない手を掴むと、
ぼそりと影から、
「竜の旦那と闘ってる旦那は、こわいよ。驚いた、旦那も嫉妬するんだね」
「教えたのはお主であろうが。こわい、か。佐助も怖いと思うことがあるのだな」
「あるよ。たくさん」
その間にも幸村は手の項に自身の手を合わせ、つ、と白紙のうえに体温の低い手の
人差し指をのせる。後ろから僅かに息を呑んだような音がした。
ど真ん中にたった一字、最後には掠れきり、読み取れるか読み取れないかの
際どい文字を書くと、いよいよ影は汚れていないほうの手で顔を覆ってしまう。
だんな、俺の指は筆じゃないんだけどとも聞こえた。そんなことはお構いなしに、
重ね合わせていた手を離し、幸村は手を組んで満足気に頷いている。
書いたのは個性あふれる書画と言えなくもない、「忍」、これのみである。
「本気?」
「暑くて動く気になれん」
「そうだね、あんたそういう人だよね」
「何を言う佐助!政宗殿も同じ了見だぞ、ほら」
ばっと音が鳴るほど勢いよく開かれた文を見ると、流麗な文字で
『暑くてテメエんとこ赴くのも面倒くさいからそっちから来い』
前略も拝啓もなくストレートに一方的な要求が書かれていた。その後には、
それでも奥州は涼やかで過ごしやすいだの、青葉の見事さだの、夏の樹氷を見せてやるだの、
側近の片倉小十郎が見ればよろめきそうな文面が綴られている。
独眼竜も暑さで狂ったか、不器用なのかわかんない人だねえと、
盛夏でも表面上は涼しい顔をする忍に、幸村はぐっと力を込めたせいで
皺になってしまった文を投げつけそうになった。
「鍛錬してもこうも暑ければ、熱が溜まる一方だ!政宗殿は雷光の持ち主であるから
良いのだろうが、俺の力の制御が出来ぬわ!!」
そんな情けない姿を武田の将として見せるわけにはいかぬと、
幸村は文机の前でひたすら墨を擦り続けていた訳だった。
そして豪快な「忍」に花押を押し、折りたたむと、微妙な顔をしている忍に押し付け立ち上がる。
「旦那ぁー。俺様もね、忍んでるけどね、すっげえ暑いわけでね。
気抜いたら汗ドバーって出ちゃうくらいなのよ。忍鳥飛ばしていい?」
「もう飛ばしておるではないか」
すうっと流れるように舞い降り、またバサバサと空を飛んでいく巨鳥を幸村は
歩きながら眺める。照りつける太陽の光の分、出来る影もまた濃かった。
「竜の旦那と闘ってる旦那は、
(たいしょうやおれのしっているだんなじゃなくて、うれしそうで)
こわいよ(まるで、陶酔しきったかおで)
驚いた、旦那も嫉妬するんだね(なんでおれじゃないんだろうなんてかんがえたこともない、
なんであんたのせかいをかってに土足でふみあらすんだろうとはかんがえたけれど、
ひとめいわくだともかんがえたけれど)」
「あるよ。たくさん(あの人の眼の火はいぜんよりも増してしまった)」
テーマ・過保護な佐助。熱中症との戦いの夏でした。
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