沈丁花に御挨拶


 ふと、思い至ったので尋ねてみただけなのだが、返答は呆気なく短いものだった。
 幸村の下に忍び控えている者達は、常どおりは音もなく、衣擦れの微かな空気の振動でさえ 隠しきる。そして天井の継ぎ目の隙間やら、梢(こずえ)の葉が覆い繁るあたりやら、 ひっきりなしに見られている感覚。気配は断ってあるし、慶次はどこそこのここに誰が何人、 とまで詳しくはわからない。そんなことを造作なくやるのは主である幸村くらいだった。
 だが最初の頃などは、激昂した幸村を慕う忍たちのピリピリとした威圧感に、 敏感に反応する夢吉が落ち着かなくて困ったものだった。今では厳戒態勢も解かれ、 夢吉も幸村に頭を撫でられたり、膝の上や肩の上に乗せて共にじゃれあって、 楽しそうな様子を見せている(慶次は横目でうらやましい、と思うのだが、 幸村とまともに話せる状態になったのは夢吉のおかげでもあったので、 やはり羨ましそうにじゃれ合う姿を見ることが多かった)

 時折り思うが、この館は先立って述べたとおり、忍が多い。
 まさか自分が座している床の軒下の真下にも、諸事に備え刃を逆立てて忍んでいるんじゃと 慶次は思い当たり、意味もなく力なく笑い、内心ぞっと青ざめた。 そんなことを気にするような肝の小ささではないが、痔持ちになるのは いただけなかった。
 詰まるところ、過保護なのだ。仕える忍びや部下、 主たる武田の大虎に、武将たち皆が幸村に甘いところがある。
 だから恋も知らず、ただ覇道に追従し散る様が幸せなのかと、慶次は問うて みたかった。知る権利すら奪われることの、何が幸せか。
 だが、慶次が言を発したのは幸村にではなく、柿色の髪の唯一姿を現す忍であり、 内容も随分と必要な部分を取り除いた、実に簡潔なものだった。

 「なあ、あんたさぁ、幸せかい?」
 「……俺に聞いてどーすんの」

 旦那あたりと話してよね、そういうことは。佐助は面倒くさそうに、ことりと 茶を置いた。
 長閑な風景と時間が流れるばかり、日の緩やかさに佐助の存在も 溶け消える居室での問いだった。
 この忍は、忍らしくない振る舞いだがどこか抑えこんだ印象がある。 寡少なりとも解けるのは、やはり幸村と共にあるときだった。

「遠駆けしてていないんじゃ、どうしようもないし」
 けろりとして言う慶次に、前田からの書状がなければとっととお帰り願うのに、と 佐助は渋々と茶を出している自分を誉めたくなった。 書状とて、慶次の非礼さを詫びに謝り歩いた前田夫妻に、幸村がしたためた文の 返しであろうと予想はついている。
 慶次の奔放さと恋や人生に対する、人ならば一瞬きすれば過ぎ去っている輝きを 佐助は嫌いではない、と思う。しかし同時に、相容れぬことも同様に感じ取っていた。
 そも、幸せかなど忍に問う方が間違っている。

 「どんな時に幸福を感じるかを、さ」

 湯呑みを口に当てて茶をすする動作は何気ないが、慶次の声色の真剣さに気付いた 佐助は、大気に蕩けない質量感で言葉を紡ぐ。

 「めし食ってるのを見てるとき」



 佐助はそれきり何も言わず、するりと沈黙に融解し消え去ってしまった。









 縁側で我が物顔で寝転がっている慶次に最早怒る気力も消えうせ、 幸村はひとつ、大きな溜息を落としただけに終わった。
 近寄ってみるとどこか納得いかない顔で、じっと上を見詰めているので、 思わず幸村も目線を慶次の頭上へやってみる。が、忍も控えている わけではなし、何があるのかと幸村は首を傾げた。

 「あんたはいつ、幸せーって言うんだろうな」

 真下から聞こえた声に、はあ?と言ってみるが、饒舌な慶次らしくもなく 一向に口を開こうとしない。屈んで、慶次の上下する胸の上で安らかに 眠っている夢吉を起こさぬように撫でつつ、何故だか調子が狂う、と思い 幸村は慶次の相手をすることにした。

 「お館様に仕え、部下も民も心安く、今を生きることこそ幸せ」
 「ってことはさ、いつでも幸せってこと?」
 「左様」

 模範論すぎる、そして武士の理想論すぎる。
 この男は戦場でも幸せだ、と言うのだろう。お館様の為に槍を振るえるとは、 そんな事を思いながら敵を屠り続けるに違いない。 慶次の脳裏に浮かぶ幸村は、人であることを忘れているようにならない。
 「だがそれがし、飯を頂くのも至福にござる」
 「あー、幸せそうに食べてんなあー」
 団子とか。想像していた幸村の血塗れ姿は途端、鍛えられてはいるが その細身のどこに、と言いたい程の団子を頬張る姿に変わった。 以前佐助がうまい所教えてくれよ。真田の旦那が喜びそうだ、と慶次に 尋ねたのもわかる食べっぷりだった。
 良く食べる姿というのは、胸がすき、料理人にとっても見ている側にとっても 気持ちがよいものだが、如何せん悲しいかな、浮かんだのは 甘味の山だったのでその時のことを思い出して、うう、と慶次はうめいた。
 「食物を口にして、うまいと言えるのは、幸たる証でござろう」
 柔らかな毛並みから離れがたいのか、幸村は小猿を撫で続けるのを 止めようとしない。至近距離でゆるりと動く幸村の手は温かいのだろうと 慶次は眺めながらも、そんな感想を持った。

 「戦が起これば、敵も味方も精神を病む者がおるし、飯を受け付けぬ者も 少なからず出てくる。腹が欲しいと泣いても、心が寄せ付けぬ。 そうでなくとも兵糧不足や飢饉で食べられぬこともある。  敵の一鍾、きかん一石も民の司命には変わりあるまい」

 何でもないことのように幸村は言うが、緩みきった場にはあまりにも そぐわない言葉の羅列だった。眼に微かにちろりと宿る炎が 見えそうだと慶次は薄ぼんやりと考える。

 「精根かけ作ったもの、一粒一欠片たりとて無駄には出来ぬし、 それがしは他の命を食って生きている身、感謝の心を忘れてはならん」

 腹が減るとは生きること、食むとは生きる意志にござる。
 うまいと感じるは、生きる喜びにござらんか。
 そう言って幸村は笑った。それは生きている者の笑みで、 慶次は夢吉が急な揺れに飛び起き、足の方向へ転がっていくのも構わず、 がばりと上半身を起こした。夢吉殿が起きてしまったではござらぬか、と 撫で足りないのか不服そうな幸村は手をもどかしそうに動かす。
 慶次はとびっきりの笑顔で、
 「俺もあんたの食べてるとこ、見るの好きだよ」
 嬉しそうに言うのだが、幸村は、…はあ?と胡乱気にしながら 夢吉救出に精を出す次第だった。  にこにことしながら距離が近くなったことで、 ふわりと鼻腔をくすぐる香に慶次は何だったかと思いを馳せる。
 「………金木犀……沈香?けど香にしては香りが薄い気が…」
 慶次の呟きめいた言葉に幸村はぎくりとして動きを止めてしまう。
 あ、と慶次が思い出したという声を出すと、幸村は慌てて口を塞ごうとするが 間に合わなかった。

 「沈丁花!そうそう、春だもんなぁ〜春は恋の季節っ……」
 「け、慶次殿、気のせいでござる!」
 匂いが移るほど居眠りしていたなど佐助に知られては大事…!

 慶次は口元を幸村の手に覆われ、もがもがとしていたが (力の加減を知らないのか、物凄い力だった)幸村の手は予想よりもずっと温かい手だった。
 こくこくと頷き、やっとのことで手を離してもらったが、もう遅いだろうと嘘のつけぬ性質の 幸村に慶次は笑いかける。

 「おかえり」





注釈 : 敵の一鍾、きかん一石〜 …孫子[作戦篇]
デフォルトで主従が出張るのは、仕様です…うっ
ごはんがおいしいって幸せだー