「……!………っ……!!…やっと触れたぁ!」
 身体が半透明の男が、幸村の肩をわしづかみ、やけに嬉しそうに叫んだのは桜の咲く頃である。

 「………やっと?」


 思わず振り返ってしまって拙い、これは拙い、と己の頭が警鐘を慣らす音を幸村は確かに聞いた。 自分よりも遥かに長生きな同居人の言い付けに「迂闊に振り返ってはいけない」との 訓告がある。守りはかけてあるが、自身が油断をしていれば意味がないと、耳にたこが出来るほどに 言われ続け、また自負もあるだけにしっかりと噛み締め生きてきた…はず、なのだが。
 そうそう、長かったよーと透ける身体の向こう側に、新装開店のため工事中のビルが見える。 青いビニールシートを被せ、手前に見える灰色の囲いには「工事中のため、立ち入りを禁止します」と、 デフォルメされた工事用看板が立掛けてある。人の形をした半透明な部分だけ、ビルや看板や 仮設用の塀もゆらゆらと揺らめいて見えるのを、幸村は冷や汗の流れるのを自覚しながら見ていた。

 「もうさあ、バッチンバッチン弾かれるの何の!まつ姉ちゃんの説教【竹】並に辛かった…」

 両手に幸村の肩をがっしと掴んで(振り向いた瞬間に両手固定である。おかげで逃げ出そうにも、 困難な状態になってしまったのは言うまでもない)、己の不遇っぷりをしみっじみと語ってみせる男に、 ただ幸村は呆然と立ち尽くすのみである。幸いなのは、あまり人気のない遊歩道まぎわだったことか。
 思わず抱え込んでしまった通学用のバックパックをちらりと見、さてどうするかと思いかけたところで、 男が突然ぱっと手を離した。
 だが離されたのは片手のみで、もう片手は重量感こそないものの、 違和感をもって幸村の肩に存在を主張しているままだ。両手を離すのを怖がっているようにもとれた。

 「真田…幸村、だよな?」

 不安げに確かめるような口調のわりには、目は断定の光を持っている。実体がないのに、 そこだけ生気に溢れ、欺くことは無駄だと語っていた。幸村は意を決して口を開いた。

   「さよう。して、貴殿はそれがしに何の望みがあるのか」


 真田幸村という男は、回り道よりも正面衝突を好む男であったと記しておく。



事始斯如




一目惚れ