無名の文


言伝を頼まれてくれないか。

 愛刀を首裏にあてて、両腕を引っ掛けながらぶらぶらと歩いていた慶次に、 待ち構えていたように腕を組んで木に寄りかかっていた男は 言った。簡素な草染めの小袖と袴、見た目は従者のなりだが、 慶次は男が何者か知っていたし、伝えたら本来の姿に戻るのは 容易に予想がついた。奥州に続く国境沿いの街道だ。位置からすれば 実に曖昧な中間地点に、慶次と男はいる。
 前方にいてずっと身を木に任せていたのだから、その存在は数十歩前から慶次の目にも 入っていたが、話しかけられなければそのまま素通りしていても 可笑しくはなかった。存在感がやけに希薄、よりも慶次など端から 興味などないといった様相だったからだ。 陽気で明るさを見せる眼も、今は虚空さと殺気に近い偏執的な鋭さで 慶次を見据えている。
 慶次は無性に切なさを感じた。哀れなのかどうか、 判断はつかない。この草色をまとった従者が伝えることは、慶次に 本性を見せるまでのものなのか。額当ても顔に塗った忍化粧もなく、 山吹に橙色を溶かし込んだ髪を後ろにひとつ括った姿は武士といっても いい自然さだが、眼だけがそれらを否定している。己は闇の者であると 主張するのはそこだけであるのに。
「赤い兄さんとこの忍かい。殴っちまったのは悪いと思ってるよ」
でもその後、散々利とまつ姉ちゃんに搾られたから勘弁してくんないかな…。
ついでに再度訪れ、激昂した幸村の機嫌を直すのに、というのも何だが、
「狼藉を働いただけでなく佐助を害すとは許せぬぁあああ!!」
と一発というには強烈すぎる拳をもらったのだ。  あれから幸村にも忍にも会っていないが、何月も経って蒸し返す話でもあるまい。 やっと安心して蕎麦をたぐれるようになったのに、今更恨み節を 聞かされても折角の蕎麦が不味くなるだけだ。――とはいえ、慶次は どうあろうが楽しむものは楽しむ人間であった。
「そんなことはどうでもいい。前田の旦那、あんたこれから奥州に行くだろう」
「道沿いに行きゃ、そうなるね」
 慶次に目的はあってないようなものだ。ぶらりと歩くだけでも、しかし 知る事は多い。その中から興味をひかれたものに向かって歩く。 風来坊と呼んだのは誰だったか、慶次はそうやって世を渡り歩いている。

「言伝を頼まれて欲しい」
「…物騒だねえ。そんな眼をしてまで、俺に何を頼もうってんだい」
「あんたじゃなきゃ出来ない話さ」
 気だるげに慶次へ近づきながら、真田幸村の忍たる猿飛佐助は眉根を寄せた。 手のひらを慶次の耳元へ寄せ、顔も近づけながら短く小さく、【言伝】を 伝える。
「な、」
 目を見開いた慶次に、佐助は用は済んだとばかりに身を離して歩き出そうとした。 傍目にはすれ違った程度にしか見えないほどの、一瞬の出来事だった。 言葉を反芻して、慶次が歩いてきた道へ歩もうとする佐助を振り返って見る。
「なんだよ、今の…」
「諸国を渡り歩いてるあんたなら間違わないだろ」
それが異国語でも、一字一句、意味を損なわず。
 袂を探って、童子が石を投げて遊ぶような手軽さで佐助が何かを投げる。 草の茂みから呻きとも悲鳴ともつかない声がして、慶次はぐっと黙り込んだ。 背中に隠れて詳しく見えはしなかったが、恐らく棒手裏剣か属する飛び道具だ。
「ここは国境だ。蛇も潜む。独眼竜の忍からじゃなく、あんたから伝えてくれ」
 瞬と木の葉を散らして消えた佐助を、慶次は重苦しい気持ちで見送っていた。

佐助が口にしたのは耳慣れない言葉。だが慶次は、その言葉を好んで使う 人物を知っている。外国にも視野を向ける奥州王である。

『I die today, for your tomorrow――』

(馬鹿げてる)
 慶次には何となく意味がわかるくらいでしかない。だが十分すぎた。 綺麗過ぎて寒気がする。 恐らくこの【言伝】は佐助自身の本心でもあるし、幸村の本心でもある。
 武田と上杉のぶつかりあう刻限は近いのだと、緊張感をもって慶次にも ピリピリと伝わってくる。主の為に戦い、主の明日の為に彼等は死ぬ覚悟を 持っている。佐助は第三者である慶次によって伝えさせたいのだ。 手出しはするなと。
 宿敵と互いに認め合う関係を慶次はいまいち理解しかねた が、奥州筆頭伊達政宗は国を統べる大名、対する真田幸村は武田信玄に 仕える一武将である。生まれながらの統治者である政宗に、仕える喜びは 真実、理解できないだろう。右目の兄さんの方が心情をわかりそうだ、と 慶次は思った。なんという皮肉だろう。政宗に向けた言葉は、本質では佐助が 幸村に向けた言葉だ。でなければ、あんなにも狂おしく 誇りという利己主義な哀切と、執着に満ちた愛慕の声を、出せるわけがない。
 あの主従の関係は、いっそ暴力と言った方が清々しい。 暴力なまでに結びつきが強すぎて、他を拒絶している。そして佐助はそれに 気付きながらも享受し、幸村は気付かないまま与え続けている。 そんな壊れたものがあっていい筈がない。
 慶次は不快にまみれた胃の底で、 だが壊れているからこそ目を奪われるものもある事実に、無言になるしかなかった。

「隠したがりの忍の兄さんが本性見せたんだ。気は乗らねえけど行くだけ  行ってみるか」
 幸村の前では決して見れない佐助を見てしまったからには、 進まないわけにもいかない。慶次の恋はあったかくて、幸せになれる浮世の 極楽だ。だが佐助が見せた固執を見逃せるほど、慶次は鈍くもなれなかった。
「人の浮世は短いってえのに、うまくいかねえなあ。夢吉」
 太刀の上に乗って慶次に擦り寄る小猿に苦笑する。このまま歩けば奥州へ続く。
前方には何もない。





蒼紅一騎討ち、私は佐助は手出ししない派だと思うのですが、 旦那が殺られそうになった時介入する佐助ver.で考えたらこうなりました。闇属性55%でお送りします(微妙なすうじ)
ここでの意味は大分違ってしまいましたが、あの英文は何年経ってもふと思い出します。